2006年 09月 01日
渡嘉敷島 集団自決の真実 |
第二次世界大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)が産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」と証言した。
渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの教科書で「強制」とされているが、信憑性が薄いとする説が有力。
琉球政府当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。
当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取り調査を実施。
この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。
村長らが、終戦時に海上挺身隊第三戦隊長として島にいた赤松元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省に提出。
これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。
平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。
2006年8月27日 産経新聞より抜粋
渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの教科書で「強制」とされているが、信憑性が薄いとする説が有力。
琉球政府当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。
当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取り調査を実施。
この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。
村長らが、終戦時に海上挺身隊第三戦隊長として島にいた赤松元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省に提出。
これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。
平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。
2006年8月27日 産経新聞より抜粋
by bakatono.asuka
| 2006-09-01 01:43
| 我思う故に
|
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